この頃「日常」や「当たり前」ってなんだろう? ということを考えることがあります。

コロナ禍が始まって3年目、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の発生から11年を迎えました。

「ウィズコロナ」とやらで、手指消毒、面会禁止、リモート○○などが「当たり前」の「日常」になっている?

原発事故の影響で故郷に帰れずにいる方達にとって、果たして今の暮らしを「日常」と呼んでいいのだろうか?

「日常は過去では無い。今が日常なのだ」という考えもあります。たしかに、過去に執着したり将来を憂いたりするのではなく、「今ここ」を生きることは大切です。しかし、会いたい人と会えない、住みたい場所に住めない、ということを「日常」や「当たり前」としてはならいと思うのです。

世話人A〔この記事は、生と死を考える福島の会の会報誌(第58号~2022年3月31日発行)のものを再編集して掲載います〕